備忘録 as vet.

日々のアイデア、疑問など備忘録的に書きます。Scienceが好きです。

猫のLGLリンパ腫に関する症例報告論文が掲載されました

こつこつ執筆していた症例報告の英語学術論文(DOI:10.5455/OVJ.2022.v12.i3.2)が国際学術誌に掲載されました。

猫のLGLリンパ腫(罹患すると非常に予後の悪い腫瘍性疾患)に抗がん剤治療と補助的な免疫療法を組み合わせ、2年半以上元気に生存した報告になります。

 

一般に、科学論文は提出すればすぐ雑誌掲載というわけではなく、雑誌編集者と査読者(編集者が見繕った有志の科学者)からの批評を乗り越えて、科学的・学術的に妥当と判断されて初めてアクセプト(掲載許可)されます。

今回、(英語で書いた卒論を除き)初めて英語学術論文を書きました。一度は他の国際学術誌にリジェクト(掲載拒否)されましたが、再度書き直し、今回の学術雑誌に無事アクセプトされました。頑張ってきたことが科学の世界に認められたようで、とても嬉しいです。
ただ、掲載されたことは始まりに過ぎず、これから様々な臨床家、科学者の目を通り、参考・引用されて初めてこの論文の価値が出ます。

この論文は、LGLリンパ腫と診断された猫を飼っているオーナーさん、臨床家、研究者の方々にはとても意義深い報告だと信じています。英語で書いたことで、世界中の人々に見てもらえる確率が高まったので、より多くの患者さんの参考になってほしいとも思います。

 

とはいえ、母国語の日本語で書いたほうが、英語の原著論文よりも日本人の目には通りやすいかもしれません。

ということで、このブログでざっくり今回の論文を解説しようと思います。

獣医師さんだけでなく、飼い主さんも想定して書きます。したがって症例経過の詳細などは元論文を参考にしてください。一方で、元の論文では書き表せないような背景や行間をこちらでは補完します。

 

ハイライト

  • 猫のLGLリンパ腫患者において、化学療法(COP)と補助的免疫療法を組み合わせた治療で982日間生存した
  • 予後が非常に悪いと呼ばれる猫のLGLリンパ腫の中に、実は予後が良いサブグループが存在するのかもしれない
  • 具体的に、今回の症例で長期生存した理由として考えられるのは:
    • 化学療法の初期治療反応性が良かった
    • 腫瘍に起因した全身状態への影響(臓器障害など)が少なかった
  • 猫のLGLリンパ腫と診断されても諦めず、治療すれば一緒に過ごせる時間を延ばせるかもしれない!

 

以下にもう少し詳細を記載します。

 

前提知識

  • LGLリンパ腫はリンパ腫(リンパ球が腫瘍化したもの)の一つで、特にLGL(Large Granular Lymphocyte; 大顆粒性リンパ球)と呼ばれるリンパ球が腫瘍化したもの
  • LGLリンパ腫は免疫学的にさらにT細胞型、NK細胞型の2種類に細分化される
  • LGLリンパ腫は体の様々な部位に発生するが、特に消化器官(胃や腸)に発生することが多い
  • 猫のLGLリンパ腫は急速に進行し、症状も重く、非常に予後が悪いと言われている*1
    診断してからの生存期間中央値は1−2ヶ月程度
  • LGLリンパ腫に関しては、他のリンパ腫の治療ではスタンダードな化学療法(抗がん剤治療)が効かないケースが多く、未だに有効な治療方法は確立できていない

 

今回の患者さんについて

  • 7歳 去勢オス 日本猫、一週間に渡る嘔吐で来院(初診日)
  • 身体所見、画像検査(超音波検査、レントゲン検査)で4cm程度の腹部腫瘤が見つかり、詳細な検査(鎮静下でのTru-cut生検、遺伝子解析など)にて、最終的にNK細胞型LGLリンパ腫と診断
  • 抗がん剤治療(COP:シクロホスファミド、オンコビンプレドニゾロン)を開始し、すぐに腫瘍のサイズが退縮
  • その後も抗がん剤治療と並行して補助的免疫療法*2を行い、大きな副作用や病状の悪化を認めず長期間維持
  • 最終的には腫瘍が増大し、白血化(血液中に腫瘍細胞が増殖してしまうこと)して初診から982日目に自宅にて亡くなった

 

臨床的意義

  1. 猫のLGLリンパ腫にも長期生存するサブグループがあるかも?

    これまでの論文で、予後が悪いとされる猫のLGLリンパ腫患者の中にも、6ヶ月以上生存できたという報告がちらほらありました。このことは、猫のLGLリンパ腫には予後が悪いグループと、比較的予後が良いグループの2種類に分類できる可能性を示しています。その2種類のグループの特徴を整理・解析できれば、延命に関わる(あるいは短命になってしまう)要因を特定できる可能性があります。今回の患者は、既存の論文報告の中では最長の生存期間であり、延命に関わる重要な要因(予後因子)を持っていると思われます。その要因を次の2., 3.で考察しています。

  2. 長期生存の予後因子かも?その① ー初期の治療反応性ー
    今回の患者さんは、抗がん剤治療を開始してすぐに症状の改善し、腹腔内腫瘍のサイズがみるみるうちに小さくなりました。このことは、治療の初期反応性が非常に高く、抗がん剤が良く効いていることを意味します。つまり、初期治療の反応性が良いことが、長期生存に関与する予後因子の一つになる可能性があります。
    上記の一文は、考察するまでもなく当たり前のことでは?と思われる方もいるかもしれません。しかし、臨床的にはこの考察は非常に重要です。
    抗がん剤治療(に限らず多くの治療)はデメリットがあります。薬の副作用や治療費、投薬の負担などです。特に抗がん剤は高価で副作用も強く、治療が長期化することが多いため、治療を開始するという決断は勇気がいります。ましてや、治療方法が確立していない、予後の悪いLGLリンパ腫の治療となれば、なおさら治療に踏み切るのは難しいかもしれません。治療しても延命できる保証はなく、むしろ副作用や投薬で患者さん、ご家族を苦しめてしまう可能性もあります。その中で、抗がん剤の初期治療反応性が良い=予後が良い というエビデンスが出てくれば、治療開始が正当化されますし、治療をどこまで継続するべきか(効果があるのか)見通しが立つため、獣医師にとって有用な指標となります。また、ご家族の闘病に対する心の持ちようも変わります。

  3. 長期生存の予後因子かも?その② ー全身諸臓器への影響の少なさー
    今回の患者さんは、血液検査上、大きな異常を認めませんでした。血液検査では、内臓(肝臓、腎臓、膵臓など)や組織の損傷度合い、炎症の程度などを評価できます。すなわち、血液検査での異常が少ないということは、臓器障害や全身への負担が少ないことを意味します。
    LGLリンパ球は、細胞質顆粒と呼ばれる物質を細胞質に含んでいます。通常、この細胞質顆粒は、免疫反応において病原体などの外敵を倒すために使われる心強い武器ですが、LGLリンパ球が腫瘍化したLGLリンパ腫では、自己(患者自身)を攻撃してしまうと考えられます。したがって、LGLリンパ腫は強い組織傷害性があるとされ、臓器がダメージを受けたことで、激烈な症状と状態の急激な悪化を引き起こし亡くなる事が多いです。
    LGLリンパ腫の予後不良因子として:胸水・腹水があること、低アルブミン血症があること、高LDH血症があること、臨床症状があること、が過去の研究結果より報告されています。今回の患者さんはこれらの予後不良因子を認めず、治療を開始してから嘔吐も血液検査の顕著な異常もなく元気に過ごせていました。
    この結果は、今回の患者さんではLGLリンパ腫で一般的に認められる組織障害性や全身諸臓器への影響が少なく、長期間生存できた要因の一つになりえる可能性を示しています。今後の研究で、血液検査などの異常の度合いから、長期予後の予測ができるかもしれません。

この論文で言えないこと、この論文の役割

今回の論文は、症例報告であり、得られた事実のエビデンスレベルは高くありません。あくまでも今回の論文は、そういう患者がいたよ、という報告ですので、LGLリンパ腫の一般的な知見ではありません。つまり、他のLGLリンパ腫の患者さんに今回の事実や考察が当てはまるわけではありません。この論文での気付きを足がかりに、さらにデータを蓄積し、精緻に解析して初めて信頼性の高いエビデンスが築き上げられます。

この記事の最初の方で書きましたが、論文の掲載はスタート地点です。この論文がScienceの世界に積み上げられてきた膨大な知見の一つのピースになるためには、科学に携わる人々の目に留まり、新たなScienceの気づきや研究のきっかけになることが必要です。

この論文の患者さんとご家族は、二年半以上に渡るLGLリンパ腫の治療を戦い抜きました。名前は出なくても、患者さん、ご家族が頑張った証が論文という形で世界に残り、猫のLGLリンパ腫の新たな知見や治療の足がかりになるのであれば、本望です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:海外では、症状の重さ、予後の悪さから診断後に安楽死させるケースも少なくありません

*2:活性化リンパ球移入療法:患者の血液から取り出したリンパ球をインターロイキンで活性化し再度患者体内に戻すことです。活性化リンパ球による抗腫瘍効果を期待できます。